おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

自分が自分を粗末にしているから不条理な苦しみがやってくる

最初のころは、帰りが遅いと言っては恭一に小突かれ、休みの日にいないと言ってはぶつぶつと文句を言われていたが、いつの間にか、何を言われても、何をされても、堂々と、「お願い、やめて」と言えるようになっていた。

 自分よりも数倍ひどい悩みの相談に、日々乗っているからだろうかと初めは思っていたが、そうではない。この苦しみの先に、いったい何が待っているのか、それを知っているか知らないか、その違いがあるだけなのだ。不条理な苦しみは、明日を待っていても解決されない。

吉田修一『日曜日たち』

 

物事の解決方法は、物事を俯瞰的に見て、事実関係を正確に掴み、正しい因果関係に則って正しい判断をし、正しい行動ができるかどうか、ただそれだけなのだけれど、物事を俯瞰的に見れておらず、それ故に正確な事実関係を掴めておらず、苦しみの因果関係に気づけておらず、あるいは本当の苦しみの因果関係から目を逸らし、実際に間違った因果関係を正しいものと思い込み、間違った判断をし、間違った行動をしていると、そらぁ、見当違いな原因に対し、見当違いな対処を一生懸命にやっているのだから、不条理な苦しみがどんどんとやってくるでござんしょ。

 

基本的に苦しみの原因は、きれいな自分像に執着し、完璧な自分しか自分として認めようとせず、実際の不完全な自分、醜いところも邪悪なところも冷たいところも変態的なところも弱いところも臆病なところも愚かなところも残酷なところも自己中心的なところもある自分、そういった現実の自分を見ようとしない、無視する、拒否する、見えそうになったら誤魔化す、見えたら攻撃する、責めてしまうからだ。

 

そしてこの因果関係を理解できず、自分が自分を粗末にしているために生じている苦しみを、あたかも人が自分を苦しめていると段違いな勘違いをし、他人を悪と見なし、悪を責め立て攻撃し苦しみを与えれば、自分の苦しみは解決すると思い込み、周囲の人間を攻撃する、ネットに罵詈雑言を書き連ねるということをやらかしてしまう。

 

しかも、自分が攻撃している相手というのは相手そのものではなく、自分が都合よく解釈している相手像でしかなく、その相手像は自分の心が生み出しているものでしかないため、自分で自分の心を攻撃し、ますます自分を苦しめるようなことをしている。

 

そしてまたその苦しみも人のせいだと思い込み、再び「人=自分なりの解釈」を攻撃するということを延々と繰り返す。

 

(ちなみに不完全な自分を受け入れれば受け入れるほど、自分や人を責めたり見下したりすることが少なくなるため、その分心が自分から攻撃されることがないため、心は穏やかになっていく。日頃から自分や人を責めることが多いかどうかで、きれいな自分像への執着度や自分が自分を粗末にしている度合いがわかる。だからこそゴータマ・シッダールタ先輩は罵詈雑言をがなり立てる相手を見ると、相手が自傷行為に励んでいるようにしか見えないため、ガチで憐れむ)

 

本当の因果関係、自分が自分から逃げるから苦しむ、自分が自分を無視するから苦しむ、自分が自分を責めるから苦しむ、自分が人を責めるから苦しむ、ということをガン無視しているために当然ながら一向に苦しみは解消されず、同じことをくり返している限り、明日になっても不条理な苦しみは解決されず、それでも本当の因果関係を無視して苦しみ続けると、しまいには陰謀論みたいな感じの壮大なスケールの話にも飛びついてしまうのだけれど、それはスケールが大きくなっただけで、本質的には他責であることには変わりがない。

 

人が自分を粗末にしてきた時、相手には自分が「悪」に見えていて、その相手は「悪は粗末に扱ってもいい」という懲罰思想に則り、反応、行動しているのだけれど、相手から「悪として見られた」からと言って、自分自身が「悪である」ということにはならない。

 

自分が相手のことを正確無比に把握できないように、相手も自分のことを正確無比には把握できない。事実としてあるのは、ほとんど何もわからない状態で「私には相手がこういう風に見える」「相手には私がこういう風に見える」という個人的な解釈があるだけで、どちらが正しいとか間違っているとかではなく、どちらにとっても実際ところはよくわからないというのが一番正確だ。

 

にも関わらず、自分は絶対に正しいという前提に立ち、相手は自分の見ているとおりの人間であると勘違いしてしまう。必ず現実を歪めて見ているし、歪めて見ることしかできないにも関わらず、私は現実をありのままに見ているぽよと勘違いしてしまう。そして持ち前の懲罰思想により、相手に苦しみを与えれば物事は自分の思い通りに進むと思い込み、「相手=自分の解釈=自分自身」の苦しみを切に願うようになる。

 

となると、そらぁ、自分が自分を絶え間なく苦しめているため苦しいのは当然じゃろう。因果関係を理解していなければ、それは不条理な苦しみかもしれないけれど、因果関係を紐解いていけばそれは当然の苦しみとも言える。

 

話を戻すと、相手が自分を粗末に扱ってきた時、相手には自分が「悪」に見えているのだけれど、それは相手の個人的な解釈でしかない。

 

「悪」の部分、きれいな自分像とは異なる現実的な部分も自分にはあると受け入れられていれば、相手がどう解釈してこようと、自分を責めることがないため、苦しくならない。見たくない現実の自分から逃げたり、見たくない現実の自分を拒否したり攻撃したりすることがないため苦しくならない。

 

相手には自分が「悪」に見えていることは事実であり、それはそれで仕方がないけれど、相手の解釈によって自分の大事さというのは規定されない。

 

相手が自分に関してどのような解釈をしようと、自分は自分にとって大事にということは絶対であり、粗末に扱われていいということにはならない。

 

(逆に、自分が相手に関してどのように解釈しようと、相手にとっての相手の大事さというのは絶対であり、相手が悪に見えたからと言って相手を粗末に扱っていいということにはならない)

 

このことがわかっていれば、相手の解釈の自由を許したまま、口論(相手が悪いということをお互いに論破し合う行為)になることもないまま、相手が持ち前の懲罰思想に基づき自分を傷つけるために言ってくること、相手が持ち前の懲罰思想に基づき自分を傷つけるためにやってくることに対し、堂々と「お願い、やめて」と言えるようになるのだろう。

 

声出して切り替えていこうと思う。