おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

日常生活というシステム

「誠実性」のコンピテンシーを高い水準で発揮している人は、外部から与えられたルールや規則ではなく、自分の中にある基準に照らして、難しい判断をしています。この基準が長期にわたってブレない、一種の判断軸になっているわけです。

 

自分なりの「美意識」を持ち、その美意識に照らして、システムを批判的に見ることでしか、私たちは「悪」から遠ざかるすべは無いのです。 一方で、システムから排除されてしまえば、社会的な成功を収める事は難しい。ここに私たちが向き合っている大変難しい問題があります。

山口周『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』

 

洋の東西を問わず、私たちが必ず組み込まれている最小限のシステムというのは自分の日常生活だろう。

 

世の中には大小様々なシステムがあるのだけれど、どうしても自分の力では変えられないしコントロールできないシステムがある。例えば政治システムや金融システム。

 

これらの自分では変えられないもの、コントロールできないもの、直接的な影響を及ぼすことができないものに時間と労力を割くのは無駄の極みであるため、自分がコントロールでき、変えることができ、直接的な影響を及ぼすことのできる日常生活というシステムに自分の時間と労力をフォーカスしたほうが有意義だ。

 

この日常生活というシステムの軸が外部から与えられたルールや規則だったり、あるいは軸そのものがなかったりすると、そのシステムは悪いものになっていく。

 

つまり、自分を苦しめ、不安と恐怖と怒りと強迫観念をもたらすだけのシステムになっていく。あるいは他人に害を与えるだけのシステムになっていく。

 

そしてそのシステムによる苦しみに耐えられなくなると、時としてそのシステムそのものを壊すために自ら精神を崩壊させたり、自ら命を絶ったりする。

 

自分がどうしようもなく組み込まれている日常生活というシステムによって、苦しみや不安や恐怖や怒りや強迫観念がもたらされているということは、そのシステムの何かがおかしいということになる。

 

そして自分の日常生活は他人のシステムではなく自分のシステムでしかないため、そのシステムがおかしいのは誰のせいでもなく自分のせいなわけだ。

 

「自分のせい」というのは、自分を責めて否定して攻撃しろと言いたいのでは決してなく、自分の力でどうにでも変えることができるということだ。

 

おそらくそのシステムが苦しみをもたらしているのは、軸がネガティブなものか、あるいは軸そのものがないからなので、ここにおすすめの軸を示しておこう。

 

「自分を大事にする」

 

これだけだ。

これを軸に日常生活というシステムを見直していくと良い感じのシステムが次第にできあがってくる。

 

具体的には以下の4つを判断基準にして日常生活を組み立てていく。

 

それは自分の体を大事にすることになるのか

それは自分の心を大事にすることになるのか

それは自分の持ち物を大事にすることになるのか

それは自分の身近な人を大事にすることになるのか

 

すると、自分の体を痛めつけるような酒やジャンクフードは控えるようになり、バランスのとれた食事を自炊するようになったり、しっかりと睡眠をとるようになったりする。適度に体を動かし始めたりする。

 

自分の心を痛めつけるような他責思考(自分が捉えている他人というのは他人そのものではなく自分の心が生み出した影像であるため、他責は必ず自責となり、自分の心を痛めつける)や自己否定を避けるようになり、他人や自分に寛容になり、肯定的な捉え方を意識するようになる。日記や瞑想を通じて自分の内面に注意を払うようになる。

 

自分の持ち物を大事にするために、使わないものを手放し、身近なものをきちんと使うようになる。定期的にメンテナンスをして丁寧に使うようになる。掃除をするようになる。使わないものをそもそも買わないようになる。

 

自分の身近な人を大事にするために、責めたり罰したりマウントをとったりすることを控え、話を聞いてあげたり、肯定したり、感謝したり、褒めたり、誤ったり、ささやかな贈り物をしたりするようになる。

 

何かをする時に、それは自分を大事にすることになるのか、という判断軸を噛ませて、その答えが「間違いないでやんす」となった習慣を取り入れていくことによって、自然と日常生活、つまり自分のシステムは整いはじめる。

 

無論オムロン、「間違いないでやんす」と思った習慣も、実は苦しみをもたらし続けることになるということもあり得るため、その際は苦しみをヒントにして調整していけばいい。

 

多くの場合、その習慣の目的が「自分を大事にするため」ではなく「他人を見下すため」になっていることが多い。

 

例えば、自分の体を大事にするための筋トレと他人を見下すための筋トレ、自分の頭や心を大事にするための読書と他人を見下すための読書、自分の体を大事にするための自炊と他人を見下すための自炊。

 

傍目には同じ習慣で組み立てられ同じシステムに見えるものも、その根本的な軸、目的、動機によってそのシステムからもたらされるものが異なってくるというのが日常生活システムの面白いところなのであーる。

 

苦しみを誰かにせいにして喚き立て、自分の心を痛めつけることに集中するよりも、苦しみを俯瞰的に捉え、その苦しみを生み出している自分のシステム(日常生活、思考パッターン)を批判的に見て(批判というのは自己否定ではない)、システムの組み換えに注力したほうが効果は抜群なのであーる。

 

むしろ、そうするしか「悪」=「自分を苦しめること」=「自分の体や心や持ち物や身近な人を粗末に扱うこと」から遠ざかるすべはない。

 

逆に、「自分を大事にすること」=「自分の体や心や持ち物や身近な人を粗末に扱うこと」=「善」を心がけ、それが習慣になっているシステムを組み上げることができたら、そらぁ、もうその人は間違いなく幸福になるだろう。

 

自分の体と心を大事にしているので心身は健康だし、身近なものを大事にしているので、ものに恵まれて経済的には安定するし、身近な人を大事にしているので人間関係も良好だし、何か不都合なことがあっても誰かのせいにして喚き立てずに精神的にも安定しているしで、やはり自分を大事にすることを軸に日常生活というシステムを組むと、どうしようもなく幸福になる。

 

結局、善。

 

この善は誰かの悪を責め立てることによって、私はやつとは違って善人なんだとアッピールしようとしてる「善」ではない。その「善」は「他責=自傷行為=自分を粗末にしている」ため「悪」ということになる。

 

善と悪の違い。

自分を大事にすることになるのか、自分を粗末にすることになるのかの違い。

 

この違いを見極めることができなければ、良い感じのシステムは一向に組み上がらないということになる。

 

ぴえん。

 

声出して切り替えていこうと思う。