おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

自分なりの「良い」のままで大丈夫か

ソクラテスの言うように、我々は絶対に「よい」と思った行動しかできません、たとえそれが犯罪であろうと、です。であれば、その自分の「よい」を疑ってみる以外に「よくあろう」とすることはできません。そして誰しもがそういう同じ人間であるという地点に立てば、安易に誰かを批判することはできないでしょう。

宮野公樹『問いの立て方』

 

およそ受刑者で自分自身のことを悪人だと考えているものは、ほとんどいないそうだ。自分は一般の善良な市民と少しも変わらないと思っており、あくまでも自分の行為を正しいと信じている。

デール・カーネギー『人を動かす』

 

私たちは自分のことを正しい人間だと思い込み、その大前提の下、自分が良いと思ったものは良く、悪いと思ったものは悪いと思っている。

 

そこで思考が停止し、んじゃあ、自分が思っている「良い」というのは果たしてどのようなことなのか、そしてその「良い」ことをしているというのは言い換えると、何をしていることになるのか、ということを考えない。

 

自分がやることなすことは全て正当化し良きものとする。そして自分は正しいことしかやっていない、良いことしかやっていないというポジションに立とうとする。

 

これまじでやっちまうんだよね。

 

犯罪者はおそらく、自分の中に善と悪の基準なり、価値がある人間と価値のない人間の基準なりがあって、自分にとって悪に見えた人間、自分にとって価値がないと思えた人間は粗末に扱ってもいいという思想を持っている。

 

悪に暴言を吐いたり暴力を振るうこと、価値のない人間から何かを盗むことは良いことであり、正しいことであり、中には清らかなこととさえ思っている場合もあるのではないかしらん。

 

暴力や暴言の対象がたとえ自分の子どもであっても、一時的であってもその子どもは自分にとって悪に見えたり価値のない人間に見えたりしていて、悪や価値のない存在は懲らしめ、傷つけ、罰を与えても良いと思っている。それこそが正しいことであり、善良なことであり、清らかなことだと思っている。

 

この懲罰思想がガチムチで根付いているからこそ犯罪者は「正しいこと」や「良いこと」をやっているつもりで犯罪行為に手を染めることができるのかもしれない。

 

んじゃあ、それは犯罪者だけなのかというと、私たち自称一般ピーポーも呼吸をするように楽勝でやらかしている。

 

それが犯罪かどうかはあまり重要ではない。

それが犯罪かどうかは時と場所と文化によって変化するため絶対的なものではない。

 

より本質的なことは、私たちは自分なりの善悪の基準(価値がある人間と価値がない人間を分ける基準)をもっているということ。

 

そして自分なりの基準を満たさなかった人を悪とみなし、価値がない人間とみなし、そのような存在を罰しようとする、傷つけようとする、苦しめようとする。そうすることによって自分は奴らとは違う存在である、自分は善人であり、価値のある人間なのであーる、ということを感じようとしてしまう。そしてそうすることが清く正しく善良な人間のやることだとガチムチに思い込んでいるということだ。

 

日々が他責で溢れかえっているのはそのためだ。

 

だがしかーし、そうした自称善人の私たちがやっていることは自傷行為でしかない。

 

他人の悪を攻撃するということは、自分の悪を攻撃するということになる。

他人を縛るということは自分を縛るということになる。

 

他人に要求することは自分もそれが要求されるということになる。

 

他人にあることを当然のごとく要求し、それができなければ他人を罰するという思想は、自分もそれを満たさなければならないという縛りを設けてしまうことになり、それをクリアできなければ自分が自分を罰するようになる。

 

他人に向けるネガティブなエネルギーは、確実に自分にも作用する。

 

他人の悪を否定する度合いが強ければ強いほど、自分への縛りもその分だけ強くなり、善人でなければならないという強迫観念が強くなり、次第に善人の基準を満たすことができなくなり、他人の悪を否定して手っ取り早く自分は善人であるということを感じようとする。

 

こうして自分(の悪)にも他人(の悪)にも寛容ではない自称善人の他責中毒者が出来上がることになる。

 

他責中毒者のセルフイッメージは「自分は清く正しく善良な人間」というものなのだけれど、その人が実際にやっている行為は人を粗末に扱おうとしている、人を苦しめようとしている、人を傷つけようとしている、人を馬鹿にしようとしている、人を見下そうとしている、そんな感じのニュアンス的な雰囲気でしかない。

 

自分が自分だと思い込んでいるセルフイッメージと自分が実際にやっている行為が一致していないということに気がついていない状態、自分が今実際には何をやっているのかがわかっていない状態。

 

正しいこと、良いことをやっているようで、自傷行為をしてしまっている、犯罪行為をしてしまっている、身近な人を粗末にしてしまっている、みたいな感じのニュアンス的な雰囲気。

 

自分、大丈夫だろうか。

 

声出して切り替えていこうと思う。