おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

自分を大事にする時に大事にしてしまっているもの

「徳」のじゅうぶんな人は、ことさらなしわざをしない「無為」の立場を守っていて、何かをしたという跡を残さない。

金谷治老子

 

「徳」というのは大事にする習慣という意味だと思うのだけれど、自分が自分を大事にしていれば、「ことさらなしわざ」をいちいちする必要がない。

 

私たちが自分を大事にしようとする時に大事にしてしまうのは人から見た自分のイッメージで、実際の自分ではない。

 

ちゃんとしている自分

一人前の自分

善良な自分

優秀な自分

清廉潔白な自分

正常な自分

金持ちの自分

綺麗な自分

かっこいい自分

強い自分

賢い自分

 

というようなイッメージを大事にして、他人からイッメージ通りの価値のある人間として見られているかどうかを重要視してしまう。

 

しかし、そのイッメージには実際の自分の一部分しか含まれていない。

 

実際の自分には、他人に証明したい自分像とは異なる側面が他にも多分にある。

 

邪悪な側面、醜い側面、けちくさい側面、冷酷な側面、変態的な側面、弱い側面、怠惰な側面、無能な側面、臆病な側面等々。

 

実際の自分には誇らしい側面も多分にある一方で、そうではない側面もたくさんあるというのが現実なのだけれど、「価値のある自分像」を大事にするということは実際の自分の一部分を自分として受け入れようとせずにむしろ切り捨てようとしているということで、それは「自分を大事にする」ということにはならない。

 

私たちはそうして自分を大事にせずに「価値のある自分像」を大事にする。

 

そして私はこんなに価値のある人間なんだということを証明するために「ことさらなしわざ」励む。

 

私はこんなに価値のある人間なんだということを証明するために、私はこんな価値あるものを持っている、私はこんな価値あることを成し遂げた、私はこんな価値あることができる、私は、私は、私は、と必死に自分の痕跡なり印象なり色なりを残そうとする。

 

その根本には、人から大事にされたいという強い欲求がある。

自分の価値を証明し、人から大事にされようとしている。

 

そして証明したい自分像にそぐわない実際の自分の側面を見ないようにしている、認めないようにしている。そういった側面が自分にあると認めてしまうと、人から見捨てられるような気がして怖いからな。

 

一方で、徳が十分な人は、自分の中の良い側面も悪い側面もすべて自分の一部として認め、悪い側面があるからといって自分を罰することもなければ、その悪い側面を正当化することなく、良い側面も悪い側面もある自分を大事にすることができる。

 

自分が自分全体を大事にできているため、誰かに大事にされたいという欲求もなく、その欲求に突き動かされて価値のある自分像を証明するための「ことさらなしわざ」をする必要がない。

 

価値のある自分というイッメージを証明し、アッピールするために何かをかき集めることもないし、自分はこんなに価値のある人間なんだという痕跡なり印象なりを残そうとする努力をすることもないし、イッメージどおりの自分を演じることもない。

 

自分を粗末にして、自分のイッメージを大事にしている人は、粗末にする習慣が常に発動し他人も粗末にする。よって、金や力や美貌や才がなければ人を繋ぎ止めておくことができない。それ故に、金や力や美貌や才を失うことを恐れ、それらに執着する。

 

自分を大事にして、自分のイッメージに執着していない人は、大事にする習慣が常に発動し他人も大事にする。その人の近くにいると大事にしてもらえるため、安心することができるため、人が寄ってきて離れていかない。誰もが大事にしてもらいたいという欲求をもっていて、徳のある人はその欲求を満たすことができるからな。

 

無論オムロン、誰かを大事にする時には、必ず時間と労力が必要になり、人間一人が有する時間と労力には必ず限界があるため、どんなに徳のある人でも、実際に自分の時間と労力を割いて大事にできる人の数には限りがある。

 

それはその他の人を切り捨てたいというのではなく、大事にしたい気持ちは山々なのだけれど、時間と労力が足りないためにそれができない、申し訳ない、というのが実情なのだろう。

 

自分のことをきちんと大事にできるようになり、自分はこんなに価値のある人間なんだというイッメージの証明活動に囚われない人になりたいものだ。

 

イッメージの証明活動は虚構でしかなく、自己否定の一形態でしかないため苦しみをもたらすだけだからな。

 

まぁ、なんだかんだでやってしまうのだけれど。

 

声出して切り替えていこうと思う。