おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

陛下の不自由

それにしても、楽しい一日であった。日本にいてはなかなかできないことだが、自分が誰かを周囲の人がほとんど分からない中で、プライベートに、自分のペースで、自分の好きなことを行える時間は大変貴重であり有益であった。

 

再びオックスフォードを訪れる時は、今のように自由な一学生としてこの町を見て回ることはできないだろう。おそらく町そのものは今後も変わらないが、変わるのは自分の立場であろうなどと考えると、妙な焦燥感におそわれ、いっそこのまま時間が止まってくれたらなどと考えてしまう

徳仁親王『テムズとともに 英国の二年間』

 

「皇族」というのは「出自」であり、「肩書」であり、それは私たち人間が作り出した「レッテル」や「幻想」にすぎないのだけれど、それでもなお、人間世界では効力を発揮し、それによって個々人が縛られるという現実を作り出してしまう。

 

まぁ、それもこのレッテルの人間はこうでなければならない、ああでなければならないという固定的な思い込みや連想を周囲の人間に期待され、それを本人が義務として受け入れている場合に限られる。

 

もちろんその縛りは陛下であっても例外ではなく、一人の人間がそのレッテルを生まれた時から押し付けられ、そのレッテルに付随するイッメージから自分の言動が逸れないように注意を払い続けなければならないという点において、とてつもない苦労をされ、現に今もそれを遂行している時点で凄まじいことだと思う。

 

私たちは自分が勝手に生み出した思い込み、あるいは他人によって提示されそれを受け入れた思い込みの中で上下の世界を作り出し、その世界の中で少しでも上の人間になれるように、下の人間にならないように日々ネバギバの精神で頑張っている。

 

世間的価値、つまり財力や権力や肩書や肉体美や正しさや善良さや家族や恋人のスペック等を根拠にして自分を上の人間として定義しようと日々ネバギバの精神で頑張っている。

 

そのような、可能な限りの世間的価値をかき集め、そうしてかき集めた世間的価値で自分を上の人間として定義しようとすることに終始する上下の世界(繰り返すがその世界は個々人が勝手に作り出す幻想でしかない)において、皇族というのは最上級に立つのではないかと思われる。

(陛下の本を読めばわかるが、世間的価値という点において全てが規格外だ。友人から日高屋に誘われる感覚で、一国の高官の家や王族が住む城に誘われているからな)

 

私たちはつい思いつく限りの世間的価値を手に入れさえすればのびのびと生きやすくなる、と思ってしまうが(私たちが思い描く生きやすさというのは基本的に「不特定多数の人間から一目置かれる存在になり、他人を見下して優越感を感じ続けられる状態になること」であり、その「のびのび」というのは「世間的価値を根拠にして、人や物事を思い通りにできる状態」を意味している)、世間的価値を思いつく限り手に入れていると思われる陛下であっても(私たち庶民はどんなに財力や権力や肩書を手に入れても「陛下」という域には絶対に辿り着けない)、やはりある種の生きづらさを感じているように見受けられる。

 

私たちが日々渇望している世間的価値を全て手にしているような陛下が噛み締めていた自由な時間を自由に過ごせる機会を実は私たちはすでに手にしている。自分にはそんな自由な時間を自由に過ごせる機会はないぽよ、と思ってしまう人もいるかもしれないが、陛下よりは確実にはるかに多くその機会を手にしている。

 

持っているもので自分の価値を規定する、他人と比べて自分の価値を規定しようとする、というのは上下という幻想に囚われて日々を生きている人の思考パッターンであり、その思考パッターンは苦しみを生じさせるため、陛下が持っていないものを私たちは持っている、だから私たちが上なんだ、ということを言うつもりは全くないが、両者間には持っているものと持っていないものの違いがあることは事実だ。

 

そして陛下は自由な時間を自由に過ごせる価値をしかと認識し、大切にされていた。

そして私たちは自由な時間を自由に過ごせる価値を認識しないまま、どのように時間を過ごしているのかしらん。

 

仮に有意義に過ごしていると思っているとして、その「有意義」というのはどのような意味で有意義なのかしらん。

 

「価値のある自分」というイッメージを他人に証明し、他人を見下すための努力。

あるいは「価値のない自分」というイッメージを見ないようにするための現実逃避。

 

声出して切り替えていこう。