他人の弱点や欠点を批判する目ではなく、慈しみ深い目で見てほしい。彼らが何をしているのか、何を怠っているかが問題ではなく、それに対してあなたがどういう反応を選択するか、あなたは何をすべきかが問題なのだ。問題は自分の「外」にあると考え始めたら、その考えをやめてほしい。その考えこそが問題なのだ。
スティーブン・R・コヴィー『7つの習慣』
私たちは他人の弱点や欠点をあざとく見つけて、その他人を批判したり誹謗中傷したり見下したり馬鹿にしたりする。
まさに中傷のプロだ。
メディアやSNSが世間のモノサシに合わない人を吊し上げ、不特定多数の人がその標的に向かって辛辣な言葉という石を投げつけ苦しめ続けるという構図はある種の巨大なビジネスにさえなっていると言ってもいいかもしれない。
んじゃあ、どうして私たちは他人の弱点や欠点をあざとく見つけて他人を批判したいのかというと、端的に言うと、優越感を感じたいからだ。
何らかの弱点なり欠点を取っ掛かりにして、他人を見下し、私はあいつと違ってこんなにも正しい人間、こんなにも正常な人間、こんなにもまともな人間、こんなにも善良な人間、こんなにも潔白な人間、こんなにも有能な人間、こんなにも優秀な人間、こんなにも価値がある人間、ということを感じたいし、確認したいし、証明したいし、アッピールしたいからだ。
どうして他人をフルボッコにしてまで自分は価値のある人間だということを証明したいのかというと、人から大事にされたいからだ。
人から大事にされたい、存在を認められたい、肯定されたいという愛欲があるからだ。
(愛欲は肉欲ではない)
そして、人から大事にされて、愛欲を満たすためには何らかの世間的価値がなければ大事にされないと思い込んでいる。
だから私たちは世間的な価値をかき集め、握り締め、それを根拠に自分は価値のある人間だということを証明しようとする。
そうすることによって自分は大事にされると思えて安心するし、仮に大事にされなければ、それは自分に世間的な価値が足りないからだと考えて、より多くの世間的価値をかき集めようとする。
そしていつの間にか、大事にされたいという愛欲を満たすことが目的ではなくなり、世間的価値をかき集めることが目的になってしまう。
いかに世間的な価値をかき集めるかが人生の目的のようになってしまう。
(無論、世間的価値は諸行無常の理によって必ず手放すことになる。最後は必ず手放すことになるものに執着し、ネバギバ精神で必死にかき集め、それらを手放す時が来た時にそれが受け入れられず喚き散らすか茫然自失する。人生は苦なり。まじでぴえん。)
大事にされたいという欲求がある。
世間的な価値を手に入れ、自分は価値のある人間だということを証明すれば、人が寄ってきて、自分を大事にしてくれると思い込む。
そして、ネバギバ精神で世間的な価値をかき集めようとする。
思い通りに世間的な価値が手に入らなかったら大事にされないと思い、不安と恐怖に苛まれ、何とかして世間的な価値を手に入れないと、と強迫的な精神状態になる。そして不安と恐怖をごまかすために時として酒や煙草やギャンブル等の欲にふける。
また、世間的な価値を手に入れて人から大事にされても、それは世間的な価値があるから人は自分のことを大事にしてくれると思い、世間的な価値を失うことを恐れて不安になり、世間的な価値を失わないように権謀術数を巡らしたり、さらなる世間的な価値を手に入れようとネバギバ精神で己にムチを打ち強迫的に頑張ることになる。そして不安と恐怖をごまかすために時として酒や煙草やギャンブル等の欲にふける。
世間的な価値を手に入れて人から大事にされないと、まだまだ世間的な価値が足りないからだとより多くの世間的な価値を求めて不安と恐怖と強迫観念をガソリンにして必死に頑張る。そして不安と恐怖をごまかすために時として酒や煙草やギャンブル等の欲にふける。
世間的な価値というのはお金や地位や名声や権力や美貌など、とにかくに不特定多数の人間が価値を見出してくれそうなものであれば何でもなり得るが、その世間的な価値の一つが善良さや正しさや有能さや優秀さだ。
他人の欠点をあげつらって誹謗中傷する人は、実際に善良な人間になろう、正しい人間になろう、有能な人間になろう、優秀な人間になろうとするわけでもなく、他人を見下したり、他人を問題視することで、手っ取り早く「価値のある自分」というイッメージをつくり出し、人から「善良な人間」「正しい人間」「有能な人間」「優秀な人間」として見てもらえさえすればいい。
そうしてこんなに価値のある自分は大事にされるはずだ、人から認められるはずだと安心して気持ち良くなりたいだけなのであーる。
実際に有能な人間になるためにはとんでもない量の実質的な努力が必要だが、「有能な自分」というイッメージを作り出し、優越感を感じ、それに伴う、擬似的な高揚感なり安心感を得るためには、人の弱点なり欠点を無理くりにでも見つけ出し、それを根拠にその人を見下すだけで達成できてしまうから楽ちんなのであーる。
だからついやってしまうよね。
ここで当初の目的の振り返っちゃうと、それは「大事にされたい」ということだった。
大事にされたい。
自分が「世間的に価値のある人間」だということを証明できれば、人は自分のことを大事にしてくれる。
だから他人を誹謗中傷したり、見下したりして、「価値のある自分」というものを証明しようとしている。
という構造になっている。
そして、あまりにも寂しくて人から大事にされたいという思いが強い故に、自分は「価値のある人間」なんだということを証明・アッピールしたくて、他人の弱点や欠点が目につきやすくなっているということもありえる。
他人の弱点や欠点というのは自分の価値のアッピールできる絶好の機会だし、それに何の取っ掛かりもなく他人を批判したり見下したりすることはできないからな。
いずれにしても、他人を見下したい、馬鹿にしたいという衝動の奥底には、人から大事にされたいという愛欲がある。
前述した通り、私たちは人から大事にされるためには世間的な価値を手に入れさえすれば無条件でそれが達成されると思っている。
しかし、「世間的な価値を手に入れたら無条件で人から大事にされる」という因果関係は実際には間違っている。
だからこそ、世間的な価値を手に入れていても人から大事にされているという実感を得られずに不幸を味わっている人が数多くいるわけだ(紀州のドン・ファンとかな、古いが)。
人から大事にされるために実質的に有効な手段は自分が人を大事にすることで、ガチのムチでそれしかない。
言い換えると、人から大事にされるための正しい因果関係は「人を習慣的に大事にしたら人から大事にされる」ということになる。
莫大な資産や異次元の才能といった世間的な価値を持っていても、その人が息を吸うように他人を粗末に扱うような人であれば、人は実質的にその人から離れていく(その資産や才能を利用できる限り利用しようと近づいて来はするかもしれないが)。
なぜなら、周囲の人間も人から大事にされたいという愛欲を持っていて、その資産家なり天才と時間を過ごしていてもその愛欲が一向に満たされないからじゃ。
ほとんどの人が「大事にされたい」と思っているばかりで(それ故に世間的価値をいかにかき集めて握り締め続けるかということを考えているばかりで)、人を大事にして人の愛欲を満たしてあげようとする人がほとんどいないのが現状である。
まずこの時点で、人を誹謗中傷して粗末に扱うことが習慣になっている人は、当初の「人から大事にされる」という目的が達成されないということが自明となる。
人を見下していくら優越感を得たとしても、その言動は「大事されたい」という欲求を満たすことには絶対に繋がらない。
むしろ「人を見下したら人から見下される」という結果を確実に引き寄せて苦しむだけだ。
逆に、他人の弱点や欠点が目についたとしても、その人のことを馬鹿にしたり否定したりせずに、寛容に受容したり肯定し、世間的価値とは関係なく人のことを大事にすることが息を吐くようにできたら、周囲の人の「大事にされたい」という欲求は徐々に満たされていき、人は世間的価値とは関係なく自分を大事にしてくれる人のことを自然とありがたいと思うし自然と大事にしたくなり、段々と自分も人から大事にされるようになってきて、しかも愛欲を満たしてくれる人は圧倒的に少ないために、ますます大事にされるようになってきて、当初の目的が達成されるようになってくる。
しかも、その状況は「自分に世間的な価値があること」が根拠になっていない。
世間的価値とは関係なく人を大事にするという「自分の習慣」が根拠になっている。
そのため、諸行無常の理によってどんな天変地異が起きたとしても、世間的価値がどんなに変化しようと、自分がその習慣を崩さない限りその状況は崩れることがない。
私たちは常に大事にするか粗末にするかを選択できる状況にあり、そのどちらを選ぶかによって自分の世界の様相、自分の周囲の成り立ちが異なってくるし、変化していく。
よって、どちらを選べば(選び続ければ)どのような結果(自分の世界)になるのかということに自覚的になる必要がある。
というと、私たちは自分は正しいという前提に立って、自分なりの因果関係で自分の判断を全て正当化してしまい、やっぱりおれっちが苦しいのはあいつのせいジャマイカ、もうやってれへんどす、大麻でも吸って現実逃避でもしよかー、とボブ・マーリーのようになってしまうのだけれど、私たちはその傾向にも自覚的である必要がある。
なるほど。
声出して切り替えていこうと思う。