おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

身近なものを大事にするだけや

先日、青山美智子さんの『探しものは図書室まで』という本を読んだ。同書に以下の一節があった。

 

 蛇口をひねり、ふと鏡をのぞく。そこにいる自分の顔を、まじまじと見た。

 カップラーメンやコンビニの惣菜パンばかり食べているせいで、肌がぼろぼろだった。冷蔵庫はすかすかで、とうの昔に賞味期限の切れた調味料が途方に暮れている。寝不足で顔色も悪くて、力が出ないのも当たり前だった。

 食事だけじゃない。床には埃が積もり、窓は汚れてくもっている洗濯物は部屋干ししたまま、吊り下がっているものを外して直接身につけるのが習慣になっていた。棚の上には、いろんなものが散乱している。がびがびに固まったネイルの瓶、三ヶ月前のテレビ雑誌、半年前に思いつきで買ったまま封も開けていないヨガのDVD。

 自分は今まで、自分をなんて粗末にしてきたんだろう。口に入れるものや身の回りのものをていねいに扱わないって、自分を雑にするってことだ。

 

日常生活は自分をいかに大事にしているかの指標になる。

 

自分で自分のことを大事であると思えていれば、大事な自分が口にするものや普段過ごす場所に注意を払うことは自然なことだろう。

 

なるべく自炊をして健康的な食事を心がけたり、部屋の掃除や整理整頓を心がけたり。

 

ここでの大前提は、自分のケアは自分でするということだ。自分を大事にするのはあくまで自分であって、決して他人ではない。これが大前提だからこそ、他人を責めることなく自分で自分のために動くことができるし、他人が自分のために動いてくれた時にはありがたいとしみじみと感謝することができる。

 

あいつが料理をしてくれないからジャンクフードを食べざるを得ない、あいつが掃除をしないから汚部屋で過ごすしかない、と御託を並べるということは、自分は自分のために動かないという前提に立っている。自分は自分のために動かないということは、自分で自分のことを大事だとは思っていないということさかい。

 

日常生活というのは放っておくと基本的に乱れていく。

 

部屋は汚れていくし、洗濯物は溜まっていくし、食べ残しは腐っていくし、排水溝はカビてくるし、髪や爪や鼻毛は伸びてくるし、体は太ってなまってくる。

 

でも、乱れたら乱れたでその都度整えていけばいいだけだ。

 

普段口にしている食事、普段過ごしている部屋、普段使っているもの、それらが整っているかどうか。整っているということは、乱れたものをその都度整えている、乱れないように心がけているということで、それは自分で自分のために動けているということで、その分、自分のことを大事にしているということになる。

 

まぁ、人に整えてもらっているが故に身近なものが整っているということもあるかもしれないが、その場合は少なくともその相手を大事にする必要があるかもしれへん。

 

結局は身近なものや人を整えていく、大事にしていく、ただただそれだけなんだよな。