おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

優越感のための努力ではなく

私たちは人に認められたいという強い欲求がある。

 

そして、人に認められるために「私は価値のある人間なんだ」ということを示すことに心血を注いでいる。「私は価値のある人間なんだ」ということを示すために、何らかの形で優越感を手に入れようとしている。

 

他人よりも多くの金を手に入れて、優越感を得て認められたい。

他人よりも優れた知性を手に入れて、優越感を得て認められたい。

他人よりも優れた身体能力を手に入れて、優越感を得て認められたい。

他人よりも人気を得て、優越感を得て認められたい。

他人よりも優れた才能を手に入れて、優越感を得て認められたい。

他人よりも高い地位を手に入れて、優越感を得て認められたい。

他人よりも価値のあるモノを手に入れて、優越感を得て認められたい。

 

などなど、パッターンは無限にあるが、どれも「不特定多数の人が価値があるとみなしているものを手に入れて、優越感を得て不特定多数の人に認められたいぽよ」ということに集約される。

 

より簡潔に言えば、「価値を手にし優越感を得て認められたい」ということだ。

 

私たちはこの欲求に従い、何らかの形で優越感を得るために日々努力している。

 

ご多分に漏れず、私もそうだった。

 

でも、最近になってようやっと、仏教のおかげで優越感のための努力は不毛で、消耗するだけだということに気づき始めた。

 

これからは、優越感のためではなく、ただ大事にするために努力していきたいと思えるようになってきた。

 

優越感のためではなく、自分の体を大事にするために、ちゃんと寝る、運動をする、自炊をする、瞑想をする。

 

優越感のためではなく、自分の頭を大事にするために勉強をする。

 

優越感のためではなく、毎日大事に使うためにモノを買い、高頻度できちんと使ってあげられそうもなければ買わない。

 

優越感のためではなく、自分の感情を大事にするために他人の感情を大事にする。

 

無論、私は完璧な存在ではないため、常に何かを大事にできるわけではない。

 

そういう時であっても、何かを蔑ろにしてしまった自分を責めて否定するのではなく、そんな自分も紛れもない自分の一部なのだから大事にする(もちろん、何かを蔑ろしたことを正当化するのではなく、それはきちんと反省していく必要がある)。

 

こんな感じで、不特定多数の人から認められるためではなく、優越感のためではなく、身近なものをただ大事にすることを念頭において、日々過ごしていきたいと思う。