おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

豊かな人と貧しい人は仏教的に発想が全然違うらしいじゃんけ

豊かな人と貧しい人は、実際に所有しているモノやお金の量に関係なく発想が根本的に異なると仏教では説かれているという。

 

豊かな人は、私の世界には必要なものが十分に溢れていて、足りないものは特にない、ありがたいなーという発想で生きている。

 

必要とするものの量は少なく、すぐに満たされてしまう。

 

自分に必要なものは必要な時にすぐに手に入るという発想であるため、何かが舞い込んできても、自分に必要な分だけをいただき、残りは快く人に差し出すことができる。何か特定のものを不必要に溜め込むこともない。

 

一方で貧しい人は、私の世界は常に足りないという発想である。なので、あれもない、これもない、あれも必要、これも必要、人にでもあげようものなら自分は困窮してしまう。人にあげるということは人から奪われるということであーる。みたいな感じの発想である。

 

貧しい人は自分がすでに持っているもの、すでに受けている恩恵を無視する。無論、自分がすでに持っているもの、身近なものに感謝することもなく、大切にすることもない。常に他人と比べてないものを探し、してもらっていないことに不平不満を述べ立てる。

 

最初にも述べたが、これは所有物やお金の有無や量の多寡の問題ではなく、世界観の問題だ。

 

自分は果たしてどちらの(どちらよりの)世界に生きているかしらん。

 

そしてもっと恐ろしいのは、どちらの発想で生きているかによって、現実の物質的な裕福度・困窮度も大きく変わってくる。

 

自分はもうすでに十分持っているという発想で生きている人は、その分余裕があるので人に自然に優しくできる。人に自然にものをあげることができる。そういう人のもとには人が集まり、集まった人はその人に進んで協力しようとするだろうし、進んでものを与えようとするだろう。そうして実際に人やものに恵まれるようになる。

 

逆に、常に欠乏感しか感じられない貧しい発想の人は、その分余裕がないので、人への接し方は当然とげとげしくなる。お前はあれもできていない、あいつはこれもできていないと不平不満ばかりをもらすことに終始する。欠乏状態なので、人に何かをあげることもない。無論、人は離れていく。そしてあれも足りない、これも足りないと必要以上に多くのものを買い込むので、お金もなくなっていく。溜め込んだものも実際に使うことはないのでゴミになる。こうしてすでにいる身近な人やすでに持っている価値あるものやお金を失い、実際に困窮状態に陥ってしまうのであーる。

 

世界の捉え方次第でこうも変わってしまうとは。

 

足るを知る発想で生きていきたいものどす。