最近仏教から学んだことは以下の1点。
1 人は自分のことを正しいと思っている。
私たちは幸福になろうとして、一人ひとり自分なりに試行錯誤して日々頑張っている。
こうしたら幸せになれるという自分なりの確信があるから人はそうするわけなのだけれど、しばしばこんなはずじゃなかったと後悔する。
結婚したら幸せになれると思っていたけれど、実際は夫からのモラハラに耐える日々でただただキツイ。
大金持ちになれば幸せになれると思っていたけれど、まだ足りない、もっと増やしたい、失うかもしれないと、ネガティブな感情が沸き起こってきて、案外と落ち着きとは程遠い日々だ。
こうすれば幸福になれると思っていたのになんか違うやんけ、と思うパターンは多岐に渡るはずである。
このように我々人間の知識や認識というのは不確かなのだ。
最近は大学の研究などで幸福の研究も科学的に行われており、それはそれで素晴らしいことなのだけれど、しかしながらやはり科学というのも不完全な人間が作り出したものであるため、100%正しいというわけではない。
というより科学は全ては仮説に過ぎないという大前提に立っている。科学はそれ自体が100%は正しくないかもしれないということを認めているからこそ、色んな角度からの新たな仮説を立てることが可能になり、発展していく。発展していくと言っても、あの説からこの説へ、この説からその説へと、主流の見方が変わっていっているに過ぎない。科学でさえも絶対ではなく、不確かなのである。
自分も不確かで、科学も不確か。
歴史を振り返ると、それらを証明する例はきりがない。けれども当時の人々はその時々で一生懸命考え、慎重に選択してきたのも事実で、それと同様に今日の私たちも幸福になろうとこれまで自分なりに真剣に考えて選択してきている。その結果が今現在の自分であり、自分を取り囲む環境なのだけれど、なんか違うなーと思っているのが大半なのではないか。私もその一人なのだけれど、やっぱりそれは自分が100%正しいわけではないからだし、周囲の人間や環境が100%正しいわけではないからだ。
「自分が100%正しいということはありえない」ということは「自分は100%間違っている」ということではもちろんない。ただただ自分は不完全な人間なのだから必ず何かを見落としているし、どこか偏っているし、あべこべなところがある、ということだ。
仏教は人間の不完全さを徹底的に教えてくれるのだけれど、だからといって仏教を聞いて自分はまじでアッパラパーじゃんと絶望に駆られるということもない。ただただその徹底ぶりに感服してしまう。
放って置くとついついおれは正しい、こうすればこうなるんだ、間違いないんだ、と傲慢になりがちな私を、ばっきゃろー、と仏法はこてんぱんに諌めてくれる。
まじでありがたい。