仏教ではお金は貯めるためのものではなく、使うためのものであるという。
私は月に一度、資産チェックをしているが、資産が前月よりも増えていると嬉しく感じてしまう。
これは当然の感覚かもしれないが、ある意味でこれは何よりも金を優先させた結果であるということも言えるかもしれない。
ここ一ヶ月間で何かを必要以上にケチらなかっただろうか、と思い返してみる。
うーん。特段思いつかない。
ということは、資産が増えた理由は単に生活費が安かったからということなのだろうか。
では、ここ一ヶ月で必要以上に散財しなかっただろうか、と思い返してみる。
ここ一ヶ月で、仕事用の鞄やマフラーや手袋を新調したが、これらは今では毎日の必需品であり、買ったことは一切後悔していない。というよりむしろ、買って本当に良かったなーとしみじみと思う。
散財と言えば、飲み会代が多かったように思える。
そのうちのいくつかは良かったが、そのうちのいくつかはその場の流れで参加してしまったものだ。
お金は使うものである以上、お金をどのように使えば(何のために使えば)自分は幸福感を覚えるだろうかということを考える必要がある。
幸福を感じるために自分には何がどのくらい必要なのかを知る必要がある。
今本当に欲しいものは何か、本当にやりたいことは何か、お金はこれらに投じるべきなのだろう。
お金と付き合っていく以上、お金そのものの多寡を重視するよりも、一定のお金から十分な充実感を引き出す能力が試される。
その能力がなければ、ひたすらに金を貯め込むだけの人生か、散財に次ぐ散財を重ねた挙げ句、何の充足感も得られない空疎な人生になってしまうだろう。
だからと言って、無理にお金を使うのも馬鹿げているので、やはりバランスが必要だ。
本当に欲しいものは妥協せずに買う。本当やりたことには妥協せずに金をつぎ込む。
しかーし、愚鈍な凡夫である私にとっては、それが本当に欲しい物なのか、それが本当にやりたいことなのかを判断できないことが多々あり、しばしば、まいったなー、となる。
ケチくさい感じも嫌だし、必要以上に払い過ぎるということもしたくない。
この絶妙なラインの見極めが肝心なのだけれど、これがなかなか難しい。
そのラインをうまく見極めるには、やはり自分を見つめることが必要になってくる。そういう意味でお金を使うということは仏教的なのかもしれない。
今私には漠然と欲しい物があるが、それらにお金を投じることにより持続的な幸福感を得られるかどうかまた考え直してみようと思う。